August 16, 2010

聖なる都:歌詞の意味に就いての説教

如許多著名詩歌,<聖城>亦為譯為多國語言,舉世傳唱。日文曲名為<聖なる都>,字面意義為「神聖的都市」。瀏覽Yahoo日文官網時發現日本東京經堂綠綱教會牧師松本敏之於2005年復活節以<聖城>為主題的講道,如下文:

イザヤ書65章17~20節
ヨハネの黙示録21章22節~22章5節
2005年3月27日 復活祭経堂緑岡教会  牧師 松本敏之

復活祭おめでとうございます。今日は、聖歌隊の方々と器楽の方々が、「聖なる都」The Holy Cityという美しい讃美歌を演奏してくださいました。この曲は、フレデリック・エドワード・ウィーザリー(Frederic Edward Weatherly,1848~1929)の作詞、スティーヴン・アダムス(Stephen Adams,1844~1913)の作曲で、1892年に英国で出版されたものです。

ウィーザリーという人は有名な作詞家で沢山の詞を書き残しました。1500以上の曲が出版されているそうです。讃美歌では、この「聖なる都」以外に、「ベツレヘムの星」(The star of Bethlehem)という曲が有名であり、讃美歌以外では、「ダニー・ボーイ」や「ロンドン橋」などもあります。一方、作曲をしたスティーヴン・アダムスは、本名マイケル・メイブリック(Michael Maybrick)と言って、やはり19世紀終わりから20世紀の初めにかけて活躍した作曲家です。ウィーザリートとの共作も多く、「ベツレヘムの星」もこのコンビで作られた曲です。

三つの場面
この歌は三つの場面から成り立っていますが、これは単に一人の人間の夢というのではなく、聖書に基づいています。聖書に約束された幻だと言ってもいいでしょう。

最初の場面ではエルサレム神殿の周りで、子ども大人も楽しそうにしています。子供達の声は天使の声のようであった、と言います。それは無垢の状態と言えるかもしれません。そこにはある種のシャローム、神の平和が存在していました。エルサレム神殿の周りには神の国が実現していたとのです。これは一種の回想です。過去を振り返って、「ああ、あの時代はよかった」と言っているのです。

エルサレム神殿が完成したのは、ダビデの息子、ソロモン王の時代でした。イスラエルの歴史の頂点、高潮でした。その後は悲惨な、苦しみの時代が長く続きます。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北はアッシリアに滅ぼされ、南はバビロニアに滅ぼされ、イスラエルの民はバビロン捕囚となります。

第二の場面は、その苦しみの現実を歌っています。ウィーザリーは、それをただ単にイスラエルの苦難の歴史として描くだけではなく、そこにイエス・キリストの十字架の影を重ね合わせました。 イエス・キリストがこの世界に来られた時、その周りには神の国が実現していたと言えるでしょう。イエス・キリストは言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:22)。 子供達がその周りで喜び、踊りました。ガリラヤの人々も喜びに満たされました。エルサレムの人々も歓喜して、驢馬の子に乗ってこられたイエス・キリストをダビデ王の再来、「ダビデの子にホサナ」と言って、出迎えたのです。しかしその喜びはそのまま永遠に続いたわけではありませんでした。断絶があるのです。かつてイエス・キリストご自身が言われたとおりです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る」(マタイ9:15)。暗い影が差しているのです。

私たちの人生においてもそのように思える時があるのではないでしょうか。「あの頃はよかった。あの頃、私の人生は輝いていた。しかし今は暗い影が差している。苦しみの中を歩んでいる。できることなら、あの頃に戻りたい。」 

イスラエルの民もそう思ったのでした。「あのダビデ王のような時代、ソロモン王のような時代をもう一度ください。」しかしイスラエルの民に与えられた答えは、彼らの望みどおりのものではなく、彼らが全く予期していなかったものでした。それが、今日、読んでいただいたイザヤ書65章の預言です。
「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない」(イザヤ65:17)。

彼らは失われたものの回復を望んでいたのに、神様が与えると約束されたものは新しい創造でありました。再創造(リクリエーション)と言ってもいいかも知れません。彼らは過去をいつもふりかえり、それをよりどころにして生きていたのに、もうそうする必要がない。過去を忘れることができるというのです。それほど大いなることが起こるということです。

 「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(イザヤ65:18~19)。
(3)小羊が都の明かり

 イザヤが語ったこの預言は、ヨハネの黙示録の中に形を変えて、よりはっきりとしたヴィジョンとして再び現れます。それは、今日の歌にも歌われた「聖なる都」エルサレムです。ヨハネはこう語ります。 「わたしは、都の中に神殿を見なかった」(黙示録21:22)。神殿とは神様が住まわれるところです。聖なる都に神様が住まわれる神殿がないというのは、矛矛盾ではないでしょうか。そうではありません。「全能者である神、主と小羊が都の神殿だからである」(同22節)。 なぜ神殿がないのか。それは父なる神様とイエス・キリストご自身が、神殿として、神様の住まいを超えた住まいとして、おられるからです。そしてその都には、「それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(同23節)。小羊とは、イエス・キリストです。イエス・キリストが光として、明かりとして住んでおられる。美しい言葉です。 私たちのこの世界にもイエス・キリストが隠れた形で住んでおられて、イエス・キリストのまわりは、神の国が実現していたと言いました。しかし来るべき、その聖なる都においては、そういう隠れた形、分かる人にだけ分かるという形ではなくて、すべての人に明らかなように、イエス・キリストのまわりはさんさんと輝いている。それが聖なる都のイメージであります。 私たちは、この永遠の聖なる都を憧れて思いつつ、それぞれ自分の時を歩むことを、今許されているのです。皆さんの中には、この第二の場面にありましたように、苦しみ、悲しみ、嘆き、そうした暗い影の中を歩んでいるように思っておられる方もあるでしょう。しかし、それは永遠に続くのではありません。やがて終わりが来る。そしてもっと素晴らしい世界が、私たちの前に立ち現れるというのです。
(4)新しく生まれ変る

 復活祭はイエス・キリストが復活し、死の世界を打ち破られたことを記念する日であります。そしてそのイエス・キリストの復活に続いて、私たち一人一人も復活すると、預言されております(Ⅰコリント15:12~20)。その体が一体どんなものであるかはわかりません。パウロは、そういうことを詮索する人がいるけれども、愚かなことだと言っております(Ⅰコリント15:35~36)。肉の体が滅んで、霊の体として復活する。それは私たちの想像、すべての概念を超えたものであるから、私たちにはどんなものかわからないはずではないかと言うのです(Ⅰコリント15:42~43)。 終わりの日に実現する聖なる都。その所で、私たちも、新しい体になって迎え入れられるということを、心に留めたいと思います。私たち自身が新しくされて、新しいところに向かって歩み行く勇気を与えられる言葉ではないでしょうか。

今日は、3人の姉妹が洗礼を受け、一人の若い兄弟が信仰告白をして、新しく出発いたします。パウロは、洗礼というのは、古き自分に死に、新しい人間に生まれ変ることだと言いました(ローマ6:1~11参照)。この喜びの日、終わりの日を見上げる日に、そうした新生が与えられることを、共にお祝い致しましょう。

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基督徒。12歲時讀了安徒生的傳記後取他的first name "Hans"做英文名字,信主成為基督徒(Christian)後有朋友以安徒生的本名Hans Christian Andersen稱呼我。我的法文名字叫François,"自由"之意, 取自法國名導演楚浮(François Truffaut)。 畢業於文藻外語學院。目前從事GoodTV的影視翻譯工作。在學期間主修中英筆譯與口譯(逐步口譯與同步口譯),同時學習韓文,義大利文與葡萄牙文。除目前會中文,台語,英文,日文與法文外,很有野心想精通所學的這幾種語言。有更大的野心要學/精通德文,西班牙文,荷蘭文,甚至更多。願以神這般的恩賜服事祂,因若沒有祂,我就算不得什麼。感謝主!有祂的人生真的太棒了!我英文名字"Hans"的意思就是"神是滿有恩典的"。因此信主至今我對生命最大的體會就是La Vie est Belle - 生命是美麗的!